なにもこわいことはない

一組の夫婦。

大きくはない、ベッドで一緒に眠り
先に目覚めた夫がコーヒーを淹れ、朝ごはんの用意をしてくれる。
妻が仕事に持っていくタンブラーにも、コーヒーを注ぐ。

同じ食卓に顔を合わせながらも、言葉数は少なく、でも、冷たいわけではない。



螺旋階段
間接照明と本棚が素敵なリビング
広いベランダ
こじんまりとした、でも温かい寝室



妻がつくったご飯を、
「おいしそう」
「おいしい」
といって幸せそうに食べる夫


「ごめんね」
「いいよ」
「ありがとう」
あたりまえの、でもものすごくやさしい言葉が交わされる日常



2人の左手の薬指にはきらきらと輝く指輪。





お互いを愛おしく思う姿









ひとつひとつが、日常で、でも、とても美しくて

理想的な結婚生活だと思った



しかし、その裏側にあるもの








妻であること
ひとりの女性であること
誰かの母 という存在になること



夫婦になるということ
一緒に生きていくということ
ひとりであり、ひとりでなくなるということ




どうして彼女は、言わなかったのだろう
言えなかったのだろうか、だとしたら、なぜ



彼が言いたかったことは、何なのだろう
相談してほしかった?
それは2人の問題だから?
そこまでして拒んでいたわけではなかった?










夫婦になるということ
他人と一緒になるということ

相手のことを尊重しなければ
よくよく話しあって、守るべきことを確認しなければ
すれ違う事もあるものだと、認めなければ



甘くて優しいものではないのだと思う
独りでいる方が、たのしくて、気楽かもしれない
それでも、わたしは、いい


不安定さを
超えるあたたかさがあるのだと思うから






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いちばん近くにいる他人

皆川ちか(映画ライター)

 「なにもしないから」と言って女を部屋に誘う男がなにもしないはずがないように、「なんでもない」とふくれっ面でつぶやく女が本当になんでもないはずがないように、「なにもこわいことはない」と言われて、ああそうか、なんにも怖がることはなかったんだ……と、私たちは安心できるはずがない。ほんとうにそうであるのなら、そうした言葉を口にするはずないのだから

 物語は、ふたり暮らしの恵理と史也のある夏の日の朝からはじまる。携帯電話のアラームが鳴り、先に起きた史也は熟睡している恵理に布団をかけ直し、下着を穿いて階下へ降りる。数分後に再び鳴る携帯。もぞもぞと起きる恵理は、史也と同じく全裸だ。サイドチェストの上にある避妊具の空き袋をゴミ箱に放り投げ、階段を降りてゆく。台所では史也がコーヒーを淹れている。コーヒーと野菜ジュースとトーストとマヨネーズ、レタス、ハム、チーズの朝食。史也は食べたらもう一眠り。先に出勤する恵理のため、水筒にもコーヒーを注いでくれる。この冒頭部分ですでにして、彼らの暮らしぶりと夫婦関係が伝わってくる。

 阿吽の呼吸で朝食の支度をするあたり(この場面に限らず本作は基本的に1シーン1カットで撮っている)、新婚ではないだろう。それぞれに仕事をもち、働く時間帯はズレている。それでも朝食は一緒に摂るよう心がけている。昨夜は事後、そのまま寝入ってしまうほど情熱的に愛しあったのだろうか。そして子どもは当分もたないようだ。

 映画における性交場面で避妊描写のあるものは、実のところほとんどない。多くの映画では、それらしき雰囲気になったらいつの間にか挿入していて、いつの間にか果てている(主に男性が)。AVですら(だからこそ?)、男優がコンドームを装着するところは映さないという暗黙の了解がある。

 考えてみたら不思議なもので、実際に私たちが性交をするとき、望むのであれ望まないであれ、常にそれは意識している。にも拘らず映画の中の性交では、まるで頓着されていない。だからだろうか。この、避妊具の空き袋が映った瞬間(それも寄りの画ではなく、ごくさりげなく)、むき出されたエロスに私たちは戸惑う。映画のエロス、虚構のエロスではない。私たちと同じ実生活上のエロスに。

 恵理と史也は、ふたりきりで、ふたりだけで生活していこうと決めている(ようだ)。

 なぜ(ようだ)とカッコ書きしたのかというと、劇中で恵理が彼女の母に、その旨を告げるくだりがある。「子どもは? まだ?」と母に訊かれた恵理は答える。
「決めたの。生まれてくるだれかのお父さんやお母さんじゃなくて、夫と妻でいよう、って」

 ここで彼らの避妊の理由が明かされる。計画的に子どもをもつ夫婦がいるように、計画的に彼らは子どもをもたないと決めた。それは意志であり、ひいては生き方でもある。けれどここで、私たちはまたも戸惑う。避妊の理由も、子どもをもたない生き方も、恵理の言葉でしか語られないからだ。夫婦の物語ではあるけれど、描かれるのはほとんど恵理の側であり、史也がなんの仕事をしているのか、どんな友人がいるのか、実家との関係は円満か。そういった史也側の描写や記述は出てこない。明らかに意図的に、効果的に。史也自身がそれほど喋る性格ではないので、彼の考えていることや気もちは、恵理同様に私たちも常に神経をくばる必要がある。

 傍から見るぶんには、この夫婦関係は理想に近いかもしれない。互いに忙しくとも朝食(ないし夕食)はともに食べて、家事は分担し、親密に頻繁に身体を重ねる。恵理は職場の人間関係や、実家で飼っている犬の去勢手術を史也に語り、自分の感情を、気もちを、分かちあってもらう。

 しかし肝心なことは話さない。

 避妊に失敗し、史也に内緒で処理した恵理は、それを隠しとおそうとする。また、隠しとおせると思っている。妊娠したことも、中絶したことも。しかし作り手は史也に気づかせる。そして恵理にも気づかせる。そんな肝心なことを、生活をともにしている相手に隠しとおせるはずがない。日常とはそんなに恣意的なものではない、と。

 それは史也にとっても同じことで、おそらく作中でいちど描かれる性交場面、あのとき彼は避妊を怠ったのかもしれない。いや、「怠った」のではなくて「忘れてしまった」。恣意的な性交に、妻への欲情に押し流された。恵理とは微妙に意識が異なり、もしも子どもができたとしてもかまわないという思いもあったのではないだろうか。

 いずれにせよ、彼らは日常生活の恐ろしさに、改めて気づくこととなる。

 なにもこわいことはない。すなわちそれは、なにもかもがこわいということ。こわいからこそ油断をするな、慣れあうな。いちばん身近にいる人こそが、いちばんの他人なのだと意識しろ。

 恵理の働く映画館で上映されていた、斎藤久志監督がスタッフとして参加した映画「三月のライオン」に出てきた問い――どうすれば、愛しあったまま年を取れるのか?――に対する答えは、これしかないと思う。